昭和46年09月29日 朝の御理解



 御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」

 ここのところが分からせて頂いたら、信心をしなければおられないと思います。障子一重がままならない。この様に頼れない、又は果かないものはない。それが人間の本当の姿である。いわゆる実相ですね。その人間の実相という、そう言う事を分からせて頂くところから、お縋りしなければおられないのが、天地の親神様だと。しかもその天地の親神様におすがりするというても、どう縋ってよいやら分からない。そこを教祖生神金光大神のお取り次ぎを受けることによって、天地の親神様への信心が出来て来る。
 しかもその信心が段々進んで参りまして、天地の親神様のお心が分かり。お心に添い奉る生き方が出来るところから、「障子一重がままならぬ人の身」ではあるけれども、許されて喜べ許されて安心される、と思われる境地が開けて来る。どこから湧いて来るか分からん程しの喜び。これは許されていうなら恵まれて、喜びが湧いてくる。許されていわゆる恵まれて、安心のおかげが頂かれる。信心の世界信心者のまぁ特権とでも申しましょうか。信心しておるからこそ特別に与えられる境地だと思う。
 なるほど「障子一重がままならぬ人の身」であると言う事が、しかも分かれば分る程、その心が頂けるというのですから、不思議な事です。いわゆる我情をとり、我欲を放れるそこに、真の道がはっきりしてくる。信心は私は結局はその我情我欲に取り組んで、その我情我欲が段々無くなっていくという、それが信心だと思うです。しかもそれは、教えに基づいて我情が放れて行く。とれて行く。教えに基づいて我欲が外れて行く。私の知った方に、まだ六十ぐらいの年配で、大変達者な方です。
 自分が生きておる間に、葬式を、告別式をしとく。ちゃんとおかんを作っておかんの中に一遍入って、そして自分の知っておる限りの人に案内を出して、案内というか亡くなったという通知を出して、そして告別式に皆来てもろうて。もういわば死まぁ自分という者をもう死んだ。ところにほんに自分が死んだ時にはこういう人達が集まってくるんだという事も、こうやって分かる。
 名前を変えるもう自分は生きながらお葬式をして貰うて、そしてもう是からは、もう自分は死んだ者だから、生きれば生きただけが生き儲け。その生きておる間をまぁ我情我欲を放して、まぁ生活をしていかなければ値打ちはないのですけれども、そういう例えば事をまぁ珍しい事をされて、それを境に本当に家が段々没落に瀕していった。現在それから何人もの娘を立派なお家でも、人手に渡さなきゃならん様になってきた。
 ところがもうこんどこう、こげなこっちゃならんていう訳で頑張ってから、えらい働きよんなさったけれど、やはり病を得られて、それこそまた何年か後になく、本当になくなられたわけですけれども。あれが調子よういっておれば、本当にあの我情我欲を、もしよし自分な死んだけん何も言わんぞ。欲な事もせんぞと。思うてそんな事をされた訳でしょうけれどもね、本当にその財産が傾いて家を売らんならん様な事になってきたら、今度はあただに死に間際になって、我情が出てきた我欲が出てきた却って。
 それはどう言う事かというとね、私共がですね、自分で我情我欲を、はなそうったってダメです。こりゃもう出来ることじゃないです。いわゆる本当に、「障子一重がままならぬ人の身。」であると言う事。そこが分かっての我情我欲が放れて行くという事でなからなければ、まだもう死んだつもりだけれども、自分で又手を動かそう、足を動かそうという気になってくる。だからどうでも、私はここんところの、「障子一重がままならぬ人の身である。」と。
 人間のいわゆる本当の姿というものを一遍、よく分からせて頂いて、そりゃ理屈の上でいやすぐ分かります。昨日、半身不随になられたご主人の為に、お母さんと息子さんが2人参ってきて、話しを聞いてみると、やはり、まぁお便所にも行けない。半身不随ですから。もう一遍、そのまぁ家のねぎだれでも良いけんぐるっと、自分一人で回ってみるぐらいなところまでは、一つなりたいもんだと言うて、あらゆる医者にもかかり、手当てもなさったけれども、やっぱりダメである。
 なかなか人気のよい、その方以前に何回か参って来た事があるんです。(  ?  )になっておられる方。ほれでそれで一年ぐらい前に、初めは風邪をひかれたんです。それから、段々高じてから、大変難しい病気になられた。お医者さんが急に、これはもうむつかしかと言われた。それで親戚やら遠い、親戚なんかにはもう通知しとくがよかろうちゅうことになった。
 丁度もう夜中でしたけど、お願いに見えましたから私が起きて、その方の事をお取り次ぎさせて頂いたら。あの丁度のりの佃煮とか、うにとかのびんがありますね。あの上にふたがこう、ネジのふたがあるでしょう。そのネジのふたをですね、お医者さんがもう閉める方へ一生懸命閉め切ってくる。いうならば極端な言葉いうなら、お医者さんが絞殺しござるという感じです。手当てが間違っている。
 それでもう、普通の力じゃもう、誰ん開けきらんとこまでなってる、その時に私もう、言うならば私より他に助けれるもんななかっち神様が仰った。それを力を持って反対に回す。それで私は、その事を神様にお願いさせて頂いて、私にそのネジきろうとしとるとを反対に回す、もうあれは、もうネジきっ、こうしたのはなかなかとれんでしょうが。もう割ってからせにゃんごたる。
 ところが、私がそれをね、あの、御心眼でと反対の方にねじった途端にカツッと、丁度もうこれが開いたというようなお勇みを頂いた。これはおかげ頂くばい。まぁそれから本当に、それこそもうバタバタおかげ頂かれて元気になられました。それっきり、お礼参拝は一遍出て見えましたけれども、それっきりでしたから、その事を私は、その親子の方に話しました。ほんなこつ言うと何年も前にあんた方んお父さんな、もう死んどんなさらにゃんとじゃったてっしょうがち、私。
 お医者さんもほら、あんた東京におる息子には早う知らせときなさい。親戚にも知らせとけと、いわれるほどしの事じゃったから、あん時お願いに見えてこういう御理解頂きなさった事を、覚えとんなさるでしょう、というてから話した事でした。ですからそれから何年間ならお生かしのおかげを頂いておったと言う事だけ、半身不随ででも、体が今まだ生きておる、そのおられておると言う事にです。
 私はお礼をもうしあげなさらにゃ、ただ足ば上がらんごつなったけん、半身がかなわんごつなったから、お願いだけでは、いけんのじゃないですか、というて話した事でした。もう本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。「障子一重がままならぬ人の身である」という事を分からせて頂いて、手が動いておることも有り難い、足が動いておることはなおさら有り難い。目が見えておること、聞こえておること。
 一切が有り難い、そういう私はおかげを頂かせてもらう事がです、「賜しいのち、あるありて、今日もめざめたり、めざましい事のありがたきかな」と言う事になってくるんじゃないかと思う。賜しというのは、賜りし生命という事ですね。神様から頂いた生命。ね、あるありて、今日も目覚めたり。神様からね、目を覚まさせて頂いたんだ、それは生きておる印なのだ。目覚めた事が有り難いではないかと、これは現教主様の歌です。  だからその一字だけでです、その事だけでです、今日お生かしのおかげを頂いておるという有り難さだけでです、今まで難儀と思っておった難儀も、苦しいと思うておった事も、苦しい思いをすることも、難儀な思いをする事も、生きておる印であるとして、お礼が申し上げれるような心。そこまで信心が段々分かってまいります、それが成長してまいりますところからです、なるほど障子一重がままならぬ人の身ではあるけれども、喜びがあり、安心がある生活が許されるわけです。
 どうにも出来ない時に、ただ助けて頂くと言う事だけが、神様ではない。昨日は午後から、奉仕さえて頂きました。丁度昨日は竹葉会でしたから、丁度4時ちょっと前まで、ずっとお参りが続いておったのが、そのお参りが続いておるのはですね、皆事故でした。もう本当、不思議なくらい、これは私がいつもここで、体験させて頂く事ですけれども、病気のお届けがあると、ずっと病気のお届けがあるですね。
 昨日はね何人でしたでしょうか。私が12時半ぐらいからちょっと4時ぐらい、ちょっと前まで、のいうなら3時間かその間に、何件私があのお届けをさせて頂いたか。一番初めに頂かれた福岡の松岡さんという人。幼稚園にいっとる子供が、自転車でいきよったら、自動車と衝突した。もう自転車はくの字になってしもうたそうです。ところがね、もうこれだけはどうしても分からないというて言うのが、昨日申し上げてお届けするとですけれども、その一段高かとこにちゃんとたっとったそうです。
 どげんしたか、はねられとるなら痛かとこもあろうばってんね、それもない。倒れもしとらん。もう不思議なおかげを頂いてとこういう。それはもう何日か前の話し。そうしたところが、あの食堂ですからね、主人になるとが、急な出前があったから、主人が自転車でその、出前に持っていきよったところが、丁度向こうから電車が来ておる、その、ちょっと手前で、あの単車が、単車でいっとる。単車がこうスリップしてですね、倒れてもうほんな寸前のところでエンジンが止まって。
 おかげ頂いてその倒れたから、手をちっとばかり、こすりむいたぐらいでおかげ頂いた。で連れてきておる、まぁ六つでしょうかまだ、ぐらいな子供が、手にこう包帯しとりますもん。そりゃどうしたっち言うたら、これも昨日転んでから、そん骨をレントゲンとったら、骨が折れとるち。ひびがはいっとるち。そればってんあんたもういっちょん痛たがらんな、こげんしてからおかげ頂いておりますち。
 ( ? )そげな事ば本当、もうとにかく、もうこんだどうせ、28日は竹葉会じゃけん、その時一緒にあれもこれもお礼ば申し上げりゃよかちうぐらいな気持ちでしょうばってん、そげなこっちゃ私はもうほんに、もう私お届けさせて頂きながらびくびくするごたる感じがする。どうしたならそう言う事が、ちょっとの何日かの間に三っつも続くかて私が。そしたら大任の江藤さんですね、あの勇さんの奥さんの里です。のおばあちゃんが参って見えました。
 まぁでも、これこそ何日か前のお話ですけれども、おかげ頂いてから、4人、その自動車の免許ももたんのにのせちから。それで他所ん、コンクリートの、その壁にぶっつけてですね。もう自動車はもう全然修繕が出来んごとがちゃがちゃになっとるち。ところが中の4人、運転手とも5人は、もうどうもしとらんじゃったち。その事もお礼でしたけども、ある、まぁ問題のお願いがありましたから、もうその事ぐらいな事、もうお願いしなさんなち私が申しました。
 それを人に無理を言う、いわにゃならん事ですから。それよりかもう、自分方で解決しなさいち、そんくらいな問題は。もうその助けられ、助けちゃもろうたばってん、自動車が崩れたけん、へいも崩れたけん、又あそこにいくらか金をださにゃんちゅう思いが、方が先にたってるわけですよね。人間ちゃもう本当浅ましかと思いました。本当おかげ頂いて、広大のおかげを頂いておって、ですけれども、成程自動車も人の自動車でしょうから、やはりごちゃごちゃ崩したら、やっぱそれで沢山な金がいるでしょう。
 壁もいわばコンクリートの壁、がこうひびが入ってなしとるそうですから、それもしてあげにゃならんから、お金が要るでしょう。助けて頂いたばってん金出さにゃいけん、ばさらか(  ?  )ごたる風な感じですよ。もう本当にね、人間ちゃ。そしたら誰じゃったじゃろかあぁそうそう、善導寺の原さんのところから電話がかかって来た。ご主人が、北野に単車で行きよってから、丁度あそこの小学校の前で子供をはねたとこう。ほれで、あちらのお母さんがお願いにやって来た。
 やはりきとるうちに、電話がまたかかってまいりまして、まぁおかげで、まぁお父さんも単車で倒れる。子供さんもはねてこうしとるけれども、なら病院にいったところが、レントゲン見たところが2人とも異常なし、どうもしてなかったと。お礼もうしあげてくれという電話であった。そしたら日田の綾部さんが参ってきなさった。そしてこれも丁度、あのここの霊祭の日でしたけれども、その霊祭の日の続きの事なんです。
 焼酎やら、お酒やら満載した小型のトラックにのって、あの山並みに行く途中のところですね。10メートルも下にある崖下に落ちたんです。もうころころ転がっていくとを自分で感じたち。ところが又これがかすり傷一つしとらん。もう自動車はもうがちゃがちゃになってしまってる。下にはもう焼酎ガメ酒ビンの割れで、そこんところ、少しばっかりはもう泥を全部代えなければどんこん拾いもされんちゅうごとなった。
 それけんちゅうて本人は、もうちょっとこげなおかげ頂いてて、その綾部さんがいいなさるばってん、いっちょんおかげとは言わん。おかげとも思うとるごたるふうじゃなか。ならお礼に連れて参って下さいとも言わん。それが歯がゆいわけですね。綾部さんご主人としては。本当に「障子一重がままならぬ人の身」でしょうが。何時どういう事が起きてくるやら分からん。
 けれども金光大神のお取り次ぎを頂いて、御神縁を頂いておるとです、例えばそこには大難がかかってきておってもです、大難が小難、小難が無難でおかげを受けられるという事実も、今の、昨日私が3時間ばっかりお取り次ぎさせて頂いた、それだけの事からでも感じることが出来るでしょう。生命を頂いてそれこそ「賜しいのち」いわゆる、賜わりし生命。「あるありて、今日も目覚めたり」、ここんところの根本的な、私は神恩報謝の生活。そのことだけでも有り難いと思う。
 その生活に入らせて頂かなければ、金光大神のお取り次ぎによって、例えばそういうおかげも受けられる。おかげも受けられるけれどもです、ただそれをおかげを頂いたと言うただけではいけない。そこで分からせてもらわにゃならん事。悟らせてもらわなきゃならん事は、人間の知恵、力、技術とかね、知恵とか力とかというけれども、これとても当てにはなるもんじゃないと。
 昨日もテレビで言ってました。お母さんが幼稚園に行きよる子供を、送って行った途中。もうすぐそこに幼稚園が見えるけんと思うてから、帰ってきとると次に交通事故によって死んだ。もう本当に、果かないちゅったらこのくらい果かない事はない。自分ではどうにも出来ないという事を、このくらい、いやというほど感じさせるような事件とか、問題とかがそこには、あることによってです、私共が本当に障子一重がままならぬ、私共だなぁと分からせて頂いて、そこから純粋な心で縋る生き方。
 縋る信心がなされなければいけない。それをお取り次ぎを頂いて日々、信心をこうやってさせて頂いておると。信心の稽古出来んでも、御縁を頂いておるというだけでもです、ただ今申しますような、不思議とあれが一件か二件かなら、ふが良かったとこう、よかったのというてすまされるけれども、昨日のように四件もです、一緒にこうやってお届けさせてもらうと。こりゃ合楽に御縁を頂いておるという事は大変な事だなぁと思いますね。これ皆さんの上にも同じ働きがあってるんです。
 それはもっと、いわゆるなら、何もない、平穏無事で今日おかげを頂いたと言う事なんかでも、それは素晴らしいおかげだと分からせてもらわにゃいかんです。そこに私はお礼の生活が出来る。そこからです「障子一重がままならぬ人ので身」であるという、本当の事が分かるという事。実相、本当の姿という意味です。これが人間の、もう本当の姿なんです。自分ではどうにも出来ないのだ。
 いや手が動きよる様にもありゃ、足が動きよる様にもあるけれども、今申しました様に、半身不随寝たらさあね、自分のね足を上げようと思うても、自分の足じゃから自分であげりゃよかじゃないかというても、上がらんでしょう。自分一人で起き上がる事すら出来んでしょう。何年前に例えば無い生命を助かった。そのそこん所から縁を頂いておるのですから、信心が続けられておかげを頂くと、有り難い事になるのです。
 けれども、それはもうそれで一遍とらえてしもうて、又体が動かんごとなったからというて、お願いに来る。だからお願いに来る前、あん時の事をいっちょ思い出しなさいと。半身不随でも生きておられると。と言う事が有り難いことじゃないかと。そん時はお礼を申し上げるとこはお礼を申し上げて、願うところは願わなければいけない。これはもう、本当に、あの当り前のことなんです。
 おかげを受けておることを受けておることとして、お礼をもうしあげにゃならんという事は。けどもその当り前の事を、あまりに当然の事のように、その事は例えば自動車事故で今申します。それこそ5人もの者が、生命拾いをしたちゅうようなおかげを頂いたけれども、さぁ自動車が崩れとると言う事になっとりますから。助けて頂いたことよりも、自動車の崩れて、お金を沢山ださにゃならんことの方が、強いと言った様な事ではです、せっかく御神縁を頂いて信心させて頂いておる。
 なるほど信心の稽古を本気でせにゃいけんなぁと言う事になる。信心の本当の稽古をさせて頂き、本当の事が分からせて頂いて、今日もお生かしのおかげを頂いておることが有り難い、と分かるような信心にならせて頂くところから、段々許されて頂ける心が喜びであり、安心である。「障子一重がままならぬ人の身」でありながら、安心して生きて行けれるという事はどういう事か。それは神様のご守護を、自分の身に心にひしひしと感じれるからであります。
 そういう、私はそういうおかげを受ける事が金光教のおかげというんだと思います。自動車事故にあった。例えばその松岡さんなんかの、その子供の場合なんか、自動車と衝突して、自転車はもうくの字になる事なってしまっておるけれども、子供だけは、一段高いところにちゃんと立っとったこういう。どげん考えても不思議でたまらんくらい。分からん。そういう例えばご守護を受けておると言う事をです。
本当に分からせて頂いたら、それはもう本当に、その場でお礼参拝でもさせてもらわなきゃおられんのでしょうけれども、こういうお守りを受けておる。こういうご守護を受けておると。例え親でも、例えば尽くそうといっておっても、事故が起こる時には起こっておる。神様のおかげを頂かなければ、どうにも出来ない私達である、と分かると言う事が、「障子一重がままならぬ人の身」と言う事なのです。これとこれだけは私が出来る。これだけは神様にお願いする。そんな事が許されるはずがない。
 あれもこれも、一切神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない。そこんところを、私は分からせて頂くと言う事がです、お道の信心でいう、信心が分かったと言う事であり、又はお道の信心によっておかげを受けたと言う事になるのです。日田に堀尾先生という、大変お徳の高い先生がおられました。もう亡くなれました。その堀尾先生のご信心の、あれほどのごひれいを頂かれ、あれほどの人が助かったというその根本になるのは、教祖のみ教えの、この「障子一重がままならぬ人の身」。
 であると言う事を本当に分かられたからだと、ご自身も言っておられ、又私共もお話頂いて、それでおかげを受けておられるなと言う事を、感じてお話を頂いた事があります。だからこのことが、本当に分からせて頂いたら、そのようなおかげになって来るとです。「障子一重がままならぬ人の身」であると言う事。自分ではどうにも出来ないんだと。そのどうにも出来ないものを、どうしようこうしようという、その我情が何時までたっても真の道に入っていけんのだと。
 我情我欲を放れて初めて分かるのが真の道。その我情我欲を放れる前提としてですね、「障子一重がままならぬ人の身」であると言う事を分からせてもらう。理屈じゃない、本当に分からせてもらう。様々な問題を通して、なるほど悟らせてもらう。なるほどそうだなぁと分からせてもらう。そこから、一切合切が神様のお計らいの中にあることだとして、その神様に帰依もうしあげる他にはない。そこから許されて、喜び。許されて安心。もう安心のおかげという事はお徳と言う事でしょう。
 そこから、自分が助かるだけではない。人までも助かっていくほどしのおかげが受けられる、これはみ教え。「障子一重がままならぬ人の身」であると言うことがです、信心の、させて頂く者の根底になるもの。ですから、どういう例えば方法を持って、してかです、ここんところを本当に分からせてもらうと言う事。そういう私は願いを立てての信心にならせて頂かなきゃなりません。安心のおかげを受けると。いわゆるお徳を受けると言う事は、ままにならない人の身ではありながらです。
 ままになる自分の思いのままになる。思いのままという以上の思いのままになるおかげが受けられるのがお道の信心。これはどう言う事かというと、願っておる。けれども願っておることを捨てる。そこには願い以上のね、おかげが受けられる。それとてもです、なら根底に、「障子一重がままならぬ人の身である」あなたのおかげを頂かなければ、立ち行く事ではない事の事実をね、突き止める。真相を知る。それが人間の本当の姿を、いわゆる実相を分からせて頂いた人の姿ではないかと思いますね。
   どうぞ。